Share

第61話 これから車を出して

last update publish date: 2026-10-31 18:16:59

「誰が、そんなことを決めたの?」

 夜の本邸の廊下で、私はスマホを握り直した。

 電話の向こうで、莉乃が小さく息をつく。

「柊吾さまに聞いてください。私に言われても困ります」

 通話が切れた。

 お礼だけを言って、こちらの返事も聞かない。私が怒っても、もう何も変わらないと思っているのだろうか。

「灯里」

 廊下の先から燎が来た。

 私は彼に向き直り、莉乃から聞いたことを話した。

「私がNEXUS ONEを辞退したって言うの。柊吾さんから聞いたって」

「君は、何も言っていないんだな」

「言ってないわ。本当かどうか、確かめたい」

 燎は真鍋へ電話をかけた。

 私は自分の部屋へ入り、ベッドの端に座った。廊下で話し続けて、奏汰を起こしたくなかった。

 数分後、真鍋から折り返しの電話が来た。

 隣に座った燎が、通話をスピーカーに切り替える。

「桐谷様の応募は、辞退扱いで取り消されています。柊吾様が、桐谷様の了承を得ていると伝えたそうです」

 本当だった。

 私が何日もかけて準備している間に、あの人たちは、私が出ないことにしてしまったのだ。

「了承なんてして
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第61話 これから車を出して

    「誰が、そんなことを決めたの?」  夜の本邸の廊下で、私はスマホを握り直した。  電話の向こうで、莉乃が小さく息をつく。 「柊吾さまに聞いてください。私に言われても困ります」  通話が切れた。  お礼だけを言って、こちらの返事も聞かない。私が怒っても、もう何も変わらないと思っているのだろうか。 「灯里」  廊下の先から燎が来た。  私は彼に向き直り、莉乃から聞いたことを話した。 「私がNEXUS ONEを辞退したって言うの。柊吾さんから聞いたって」 「君は、何も言っていないんだな」 「言ってないわ。本当かどうか、確かめたい」  燎は真鍋へ電話をかけた。  私は自分の部屋へ入り、ベッドの端に座った。廊下で話し続けて、奏汰を起こしたくなかった。  数分後、真鍋から折り返しの電話が来た。  隣に座った燎が、通話をスピーカーに切り替える。 「桐谷様の応募は、辞退扱いで取り消されています。柊吾様が、桐谷様の了承を得ていると伝えたそうです」  本当だった。  私が何日もかけて準備している間に、あの人たちは、私が出ないことにしてしまったのだ。 「了承なんてしていません。私は、選考に出ます」 「そのご意向は事務局へ伝えます。ただ、応募を元に戻すという回答は、まだありません」  莉乃は、あんなに嬉しそうだった。  私に勝ったからではない。私が勝負をする前に、外されてしまったからだ。  奏汰との電話に遅れた夜も、疲れて文字が頭に入らなくなった時も、少しでも早く作りたかった。今度こそ、自分の名前で届けられるものにしたかったのだ。  それを、辞めたことにされるなんて。 「真鍋。本人が辞退を否定していると伝えろ。事務局の責任者と直接話す」 「承知しました」  通話が終わると、私は燎を見た。 「燎、これから車を出して」 「どこへ」 「久条の家。私が辞退したことにされたのに、電話だけで済ませたくない」  燎はすぐには立たなかった。私の顔を見て、眉を寄せる。 「今日は倒れたばかりだ」 「分かってる。長居はしないわ。でも、明日の朝まで待ったら、私が認めたと思われる」  休まなければいけないことは、分かっていた。  それでも、莉乃の声を思い出すと、ベッドに入る気にはなれなかった。私が何も言わずにいる間、あの女は私が譲ったものとして

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第60話 灯里さまと争うと、正臣さまが傷つきますもの

    「だったら、誰かから聞かされる前に、あなたの口から聞きたいわ」  夜のSENOVAの休養室で、私はベッドに横になったまま、燎を見て答えた。  嫌われたくないなんて、燎にも思うことがあるのだ。あの強気な声で命じられる時より、その言葉の方が嬉しかった。  けれど、嫌いにならないと約束して安心させることはできなかった。  私はまだ、この人を全部知っているわけではない。  燎は握った手へ目を落とし、それから私を見た。 「覚えておく」 ***  そのあとも一時間ほど横になり、もう一度成瀬に診てもらってから、私は燎と一緒に彼の本邸へ帰った。  家で休んでもいいと言われたが、明日の仕事は休むように念を押されている。  廊下で迎えてくれた三枝に、奏汰は眠っていると聞いた。  燎と別れて息子の部屋へ入ると、枕元の小さな灯りがついていた。ベッドの横に座り、額へかかった髪をよけると、奏汰が目を開けた。 「……ママ?」 「起こしちゃったね。ごめん」 「帰ってきたんだ」  眠そうな声で言い、私の腕へ手を伸ばした。  帰ってきたことを、喜んでくれている。それが嬉しくて、私はその手に自分の手を重ねた。 「うん。帰ってきたよ」 「明日、会社?」 「お休みする。朝ごはん、一緒に食べようね」 「朝ごはんのあとも、おうちにいる?」 「いるよ。明日は、おうちでゆっくりする」 「じゃあ、起きたら呼んでいい?」 「もちろん。ママの部屋に来てね」  朝ごはんのあとも、一緒にいたいのだ。そう思うと嬉しくて、私は息子の手を撫でた。明日は夜八時の電話まで待たせずに、この子が起きた時からそばにいられる。  奏汰は頷き、私の腕に触れたまま目を閉じた。  先生に診てもらったことは、電話で話してある。倒れた時のことまで話して、今この子を心配させたくはなかった。  朝には、ここで一緒に食事ができる。今夜はその約束をして、息子の手が離れるまでそばにいた。  廊下へ出て、奏汰の部屋の扉をそっと閉めた。  スマホが震えたのは、自分の部屋へ戻ろうとした時だった。  画面に、莉乃の名前が出ていた。  今夜は、あの女の声を聞きたくなかった。奏汰に帰ってきたと喜んでもらえたばかりなのだ。正臣の隣で私の代わりに笑う女に、その嬉しさまで邪魔されたくない。  それでも、久条家で何か

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第59話 君に嫌われるのは、困る

    「会いたいわ。どうして来なかったのか、聞きたいもの」  夜のSENOVAの休養室で、私は燎の顔を見て答えた。  私の手を包んでいた彼の指が、少し強くなった。燎は笑わず、私から目を離さない。昔の話だと聞き流すつもりは、ないらしかった。 「戻ってきてほしいのか」  私はすぐには答えられなかった。  あの頃は、毎晩、返事を待っていた。何かあったのなら一言でも知らせてほしかったし、もう話したくないのなら、そう言ってほしかった。  九年も経ったのに、来なかった理由をまだ気にしている。待っていた私だけが、あの時間を大切に思っていたのだと決めたくなかった。 「戻ってきてほしかったのは、あの頃よ」  レイとの時間は、今も大切だった。だからといって、あの頃に戻れるわけではない。  今、そばにいてほしいのは、私の手を握っている男だ。燎が帰ってしまったら、レイの返事を待つより先に、彼の足音を気にしてしまう。 「今は、あなたと話してるでしょう」  燎が私を見つめた。ようやく口元が緩み、握った手を自分の膝へ引き寄せる。 「なら、今夜は俺のことを考えろ」  そんな言い方をされると、また顔が熱くなる。  今までだって、十分考えていた。いつから私を気にしていたのか。倒れた私を見て、なぜあんなに焦ったのか。知りたいことは増えるばかりだった。 「考えてるわ。あなたが話してくれないから、分からないことばかりだけど」  燎の笑みが消えた。何か言いかけた唇を閉じ、私の指へ目を落とす。  いつもなら、私が困るような言葉をすぐに返してくるのに。今は、その返事を待つのが怖かった。 「私のことは、昔好きだった相手まで聞くのに。あなたのことになると、答えてくれないのね」  九年前、燎が失ったのは、どんな人だったのだろう。女の人だったのだろうか。その人にも、こんなふうに手を握って、帰ってほしくないと言ったことがあるの?  聞きたい。でも、今も忘れられないのだと言われたら、どんな顔をすればいいのか分からなかった。  知りたいのは、私の知らない話だからだけではない。この人が誰を大切にしていたのかが、気になってしまう。  奏汰のことも、正臣にされたことも話した。今夜は、昔の相手をどれほど待っていたかまで知られてしまった。  恥ずかしくても話せたのは、燎に分かってほしかったからだ

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第58話 今でも、その男に会いたいか

    「誰のことだ」  夜のSENOVAの休養室で、燎は私の手を握ったまま聞き返した。 「その言い方。昔からって……」 「何がだ?」  燎の顔は、とぼけているようには見えなかった。私が何を言い出したのか、確かめるように見ている。 「九年前、研究者向けの匿名SNS、スコープで知り合った人がいるの。レイって名前を使っていたんだけど、顔も、本当の名前も知らなくて」  あの人にも、よく「ひとつだけ、仮説を聞いて」と頼んだ。ひとつのつもりが、話し始めると終わらなくなった。 「あなた、今、『昔から』って言ったでしょう。私たち、知り合ったばかりなのに。もしかして、レイなのかと思って」  説明すると、恥ずかしくなった。燎には思い当たる様子もない。私があの人を思い出していたから、期待しすぎたのかもしれない。 「……ごめんなさい。変なことを聞いたわ」 「その男が好きだったのか」  私は握られた手へ目を落とした。  今は燎に手を握っていてほしいのに、ほかの男の話をしてもいいのだろうか。でも、レイとの時間を何でもなかったことにはしたくなかった。 「会いたかったわ。顔も、本当の名前も知らなかったけど」  燎が私の手を少し引き寄せた。 「妬けるな」  顔を上げると、燎は笑っていなかった。  昔の相手まで気になるのだと思うと、少し嬉しかった。自分から聞いたくせに。 「どんな男だった。君が、会いたくなるほど」 「頭がよくて、自信家で。言い方に腹が立つことも多かったわ。……あなたに似てた」  燎の口元が緩んだ。 「褒めているのか」 「これから褒めるの」  何を話そう。最初に浮かんだのは、もう研究をやめようかと思っていた頃のことだった。 「学生の頃、やりたい研究があったの。でも、誰に話しても無理だって言われて。何度も言われるうちに、私にもできない気がしてきた」  どうしても作りたかった。それでも諦めた方がいいのかもしれないと、レイに話した。 「その人は、世界を変える研究になるって言ってくれたの」  あの返事が嬉しくて、何度も読み返した。自分でも諦めかけた研究を、レイは実現できると思ってくれたのだ。私が続きを作るのを楽しみにしてくれた。それなら、期待に応えたかった。 「だから、もう少し頑張ろうと思えた。うまくいかない日も、あの人にできたって言いたくて」

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第57話 あなたなの?

    「言わない。もう少し、いて」  夜のSENOVAの休養室で、私は燎の手を握ったまま答えた。  いつもなら、助けてもらったお礼を言って、もう私にかまわなくていいと伝えていた。それ以上迷惑をかけたくなかったし、借りが増えるのも嫌だった。  でも、今夜は帰ってほしくなかった。目を覚ますまでそばにいてくれた男を、仕事が終わったからと帰したくない。  燎が私を見て、椅子をベッドへ寄せた。 「いる」  返事を聞いて、嬉しくなった。助けてもらったことに、まだ何も返せていない。それでも、もう少しそばにいてほしいという私の言葉で、この人は残ってくれるのだ。  私は枕へ頭を戻した。握っている手が引かれないように、燎も肘をベッドの端へ移した。  大きくて、温かい手だった。親指が私の手の甲をすり、と撫でる。その感触が心地よくて、私は握った指を少しだけ深く絡めた。  さっきは震えていた指が、今はゆっくり私に触れている。私が起きて話していることを、燎にも喜んでいてほしかった。 「ずいぶん、心配してくれたのね」 「まだしている」  顔を上げると、燎は笑っていなかった。 「起きて話せたから、もう平気だと思うな」 「……分かってるわ」  医師に休むよう言われたことも、まだ身体に力が入らないことも分かっていた。ただ、この人が心配したと認めてくれたのが嬉しくて、もう少し話したかった。  また私を見て笑う顔を、眠る前に見たかったのだ。  燎は空いている手で、私の髪を耳の後ろへ戻した。指が頬へ触れると、説明会のあと、控室でキスをしたことを思い出した。  元気な時なら、もう少し近づいてほしいと思ったかもしれない。今は、ベッドの横にいて、私の顔を見てくれるだけで嬉しかった。 「寝ろ」 「あと五分」 「灯里」 「ひとつだけ、仮説を聞いて」  燎が少し呆れたように微笑んだ。  いつもの不遜な顔より、今の顔の方がずっと好きだった。 「何の」 「あなた、私が勝つところを見たいだけじゃないわよね」  燎が片方の眉を上げた。  会議まで人に任せて、目を覚ますのを待っていてくれた。仕事で役に立つから、だけではないと思いたかった。 「こんなに忙しいのに、ずっと看病してくれて……私のそばにいたいんじゃない?」  口にすると、恥ずかしくなった。でも、燎から目をそらさずに

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第56話 今日は、ここを離れたくなかった

    「先ほど終わりました。先方も、当初の条件で進めるそうです」  夜のSENOVAの休養室で、真鍋がベッドの横にいる燎へ、海外会議の報告を続けた。  燎が短く礼を言うと、真鍋は私に頭を下げてから、もう一度彼へ向き直った。 「次からは、最初から私へお任せください。社長が話すはずだったところを、急に代わるのは緊張します」 「できただろう」 「はい。ですが、いつもなら、そこはお任せになりません」  燎は私の手を取り、指先まで包んで答えた。 「今日は、ここを離れたくなかった」  そんなことを言ったら私がどう反応するか、いつもの燎なら楽しそうに見ている。それなのに、今は握った手へ目を落としていた。少し寂しそうで、何か言い足そうとしても、言葉にできないように見えた。  真鍋はそれ以上聞かず、部屋を出ていった。  私が眠っている間に、燎は自分が出るはずの会議を真鍋に任せていたのだ。目を覚ましたあとも仕事へ戻らず、ベッドの横に座っていてくれた。その理由を本人の口から聞くと、嬉しくて、握られた手を離したくなくなった。  けれど、寂しそうな顔が気になった。  発表会場で、柊吾は燎が九年前に誰かを失ったことを口にした。あの時も、燎はこんなふうに目を伏せていた。私が倒れたことで、その人を思い出しているのだろうか。  どんな人だったのか知りたい。でも、燎が今もその人を想っているのだと聞いたら、きっと気になってしまう。  燎が顔を上げた。私を見つめる目は強く、口元にも笑みはなかった。  無理をして倒れた私に、腹を立てているのかもしれない。 「……怒ってる?」 「怒っている」 「明日は、ちゃんと食べる」 「そんな話をしたいんじゃない」  言いかけた言い訳が止まった。食事も睡眠も取らなかったことを叱られると思っていたのに、燎は私の手を握ったまま、すぐには続きを言わなかった。 「君が俺の前で倒れて、呼んでも答えなかった。俺は……」  唇を動かしてから、燎が私の顔をのぞき込んだ。 「また、間に合わないのかと思った」  握られた手に、彼の指の震えが伝わった。  また、と言った。  私が倒れた時、この人は何を思い出したのだろう。さっきから気になっていた相手を、もう、知らないふりでは済ませられなかった。 「……誰のことなの」  燎が私を見た。 「九年前

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status